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医学、口笛

日々の備忘録とあれこれ

オタクだったあの頃の話(いいものに出会うことについて)

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(ラノベ - Google 検索)

 

中学2,3年生の時に自分の周りで流行っていたものは、学校への持ち込みが禁止されていたケータイ、PSP、漫画の持ち込みと、帰ってからのパソコンでのチャットゲームと、中庭でのスポーツや帰路でこっそり立ち寄るゲーセン、カラオケだった。ゲームの世界では針穴に糸を通し、チャリに乗り、モンスターを狩り、自動車を奪って警察から逃げ、アバターに魔法を覚えさせ、現実の世界では遊びのサッカーや野球をして、先生に見つからないようにゲーセンやカラオケに向かった。基本的には家と中学との往復で、男子校然とした男子校だったこともあって服や外見にも無頓着で、考えることは少なかった。有り余る時間を何に使っていたんだろうと今からすれば思うのだけど、単純に早く寝ていたのかもしれない。当時の自分にとって、遅くまで起きてまでやることなど特になかったんだろう。

そんな中で、段々ライトノベルやアニメやギャルゲーが浸透してきた。上に兄弟がいる子たちは耳が早いというか、兄や姉の世界での流行り物に当然接する機会があるので、いち早くその文化に触れていて、それが自然と流れたのかなと今では思うが、当時は新鮮な驚きをもって迎え入れられていたことを思い出す。そんなアーリーアダプターからの流入で、少しずつラノベを読み、アニメを観る人が増えてきた。こうした新しいカルチャーは最初は訝しまれたが、次第に一定の市民権を得るようになってくる。漫画やゲームは持ち込み禁止だったが小説は当然持ち込み可能だったこともあり、貸し借りもできて、授業中にこっそり読むこともできた、そういった環境が読者を拡大させた理由なのかなと、今振り返ってみて思う。

 

小学生の頃から帰り道に本を読んでいてバスを乗り過ごすことを繰り返すような子供だった自分にとって、新しいジャンルに触れる喜びはひとしおで、魅力的なキャラクター、突拍子も無いストーリー、作者ごと、作品ごとの独特の文体に心を掴まされ、あっという間に、新刊やまだ見ぬ良作を探しに友達とアニメイトに通うということが放課後の楽しみの一つとなった。涼宮ハルヒ灼眼のシャナとらドラ!といった金字塔的作品や、嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん文学少女学校の階段などのヒット作はもちろん、覚えている限りでは、時載りリンネ!や二四〇九階の彼女といった少しマイナーな作品も、手当たり次第に買い、帰り道には読みきってしまう、という生活を送っていた。タイトルを、表紙を、帯を、挿絵を、イントロを少しチェックして、ぐっときた作品であれば迷い無く買っていた、そんな充実した日々だった。

現在と比べると、テレビの予約は番組表のGコードと呼ばれる番号を入力しなければならず、新番組の情報もキャッチ出来なかったし、音楽に関してはMP3プレイヤーも少しずつ普及し始めた時期で、持ち運べる曲数も少なく、CDは自分にとっては高い買い物であった(当時聴いていたのは、TSUTAYAでこつこつ借りたバンプミスチルRADCHEMISTRY、アニソンくらいだったように思う)。馴染みのある場所、リラックスできる場所、自由に何かを選んだり、お金を払って冒険できる場所が、当時の自分にとっては書店だけだったのだ。

 

今でもその頃ライトノベルを通じて知った、皆が知らない隠れた名作に巡り合うことの面白さが、音楽が好きになった今でも活きていると感じる時がある。Soundcloudで、Apple Musicで、ジャケでピンときたのみで他に何の情報もなく聴いてみた曲が思った以上に自分の中のヒットチャートを駆け上がった瞬間とか、気まぐれで開いてみた雑誌のレビューの言葉が気に入って、Youtubeで検索して出てきた曲に心を打ち抜かれてしまったときなど。自分の感性や偶然性が功を奏したケースだ。しかしそのような楽しみと並行して存在する、昔に比べて今を見つめたときに少し考え込んでしまうことも二つほどある。ひとつは、手に取れる情報が多過ぎて、昔の自分にとってこれは皆が知らない隠れた名作、と思っていたようなものも既に誰かが聴いて/見ていて、既にその作品について語っているその言葉に触れてしまう、ということだ。しかしこれは、アーティスト本人と繋がることが簡単になったという変化と両輪であるとも言える。ふたつめは、余りにも聴ける音楽、観られる映画、読めるテキストが多過ぎるということで、このとき、有限の時間の中での体験の価値をなるべく高めるためには、どうしても他人の言葉を参考にせざるを得ない。こういう場合は程度問題になってしまい、何もかもを読む/見る/聴くことのできないぼくたちは、ある程度信頼出来る情報を手に取り、出来る範囲での冒険をするに留まるのだろう。その中で、どう自分の中に取り込むものを取捨選択するかということこそが大事というのは、昔と変わらないのかもしれない。ただ、ゆるい連帯によって肥大して膨れ上がった""という言葉に振り回されて、ただ言葉を受け取るだけで何も言えなくなるようにはなりたくないなぁと思っている(という考えもあって、数年前に作ったレビューブログの名前は、聴くことと語ることのシームレスな接続に由来している)